中庸
物事は多すぎても、少なすぎても把握しづらい。
また近すぎても遠すぎても同様。
常に中庸を心がけたい、それが理想である。
勿論、中庸というのは、各個人の許容によって異なる。
その許容も常に変化するものであり、なかなか自分の位置さえ認知することは困難なことかも知れない。
ただ、許容は自分であり、常に自由であることは気づきにくい。
社会に属すことで、人は人であり得るのは多くの哲学者が説いている。
しかしながら、社会と自分の距離感を喪失した現代は、社会の意思に操作される自己があることで、自由という概念を形成され、思考する余地さえ奪っている。
また、最大の発信者は社会の代弁者であることも多々ある。
個人を尊重する風潮があることは、悦ばしいことではあるが、常に社会というコスモの一部の個人であることを忘れてはいけない。
他者は自分でありながら、ひとつを形成している。だからこそ、個人個人の存在が問われるのだ。一般的な社会と呼ばれるものとは異なる自己を内包した社会は存在する。
本来自己を内包した世界が社会であるはずが、距離感を喪失した現代は一般的な社会を桃源郷をしてメディアは社会を内包した自己へと反転した局面へと誘いう。
それは靴を履いて、地面から離脱することと、酷似している。
自由はあらゆる選択肢を有することで、自由と成り得るが自由の意味さえ喪失した自由を享受しているのが現状だ。
社会に属し人と成ることが古来の人という概念からは、逸脱したものであろう。
規範を創る者達が社会人である限るそれは、不変なのだ。
本来の中庸とは、もう現代の中庸でらしかねる場面にあり、社会性を失うことでしか得れないものである。
完成と未完
シンクロワールドカップ2006フリーコンビネーションを見た。
結果はご存知の通り1位ロシア、2位日本、3位スペイン。
ロシアの演技は正確緻密なもので、減点する要素が全くなかった、その点で優勝は紛れも無い実力でロシアあった。しかしながら、まったくエキサイティングでなかった。
譜面通りに奏でているコンピュータのようである。
それは揺らぎがない。正確に完成された中にも敢えて揺らぎが無いと、完成度は高いが、美しさや感動は生まれないらしい。
自然物が完成度を保ちながら、個々それぞれが個性たる特性(未完成)を内包し、環境に対応しているからだろうか。
日本の建築はその点で敢えて画竜点睛を欠く為に、柱を傾ける、彫刻を欠くなどして隙を持った。そして、修繕をしていくことで、常に新しくあり、環境・時代に対応していた。
(『失く』と『描く[加える]』は同義なのである。)
実は完成の中にも未完成があるものほど、魅力があり美しく思えることを、前代の方々を知り得ていたのだ。
間違いなく、シンクロワールドカップ2006フリーコンビネーションは1位ロシアであるが、2位日本の演技の方が魅力的でエキサイティングであった。
結果と感動は比例しないのである。
からだ
一般的に約6ヵ月で体の細胞は新しくなる。
だから、過去の自分は物理的に自分ではない。
さらに、食べ呼吸し体は形成しているのだから、自己との思惑とは別の不確定要素に巡り合い自分を成らしめている。
少なくとも空気や食物は共有物なのだから、繋がっているのだ。
それはまた物理的に今を取り入れること。
人の身体の約60%は水分。
殊に体液を放出する時、人は感動している。
血も涙も涎も汗も排泄も流す際、紛れも無く生の喜びに感動しているようだ。
放出は過去からの脱却でもある。
それがとても流動的な水分なのが、おもしろい。
新しさは悦びだ。
体は構造的に循環ではなくスパイラルしている。
スパイラルは弧より構造的に弱いが、可変であるが故に柔和で立体的である。
その立体的は4次元に対応できる強さでもある。
その点でも体は循環しているではなく、更新している方が正しい。
とすると、体液は体内で循環しているのではなく、更新していると捉えれる。
だから感動するかと思う。
体は「空(から)・だ」であり、何かを取り入れる容器のようなモノ。
あらゆる過去のアーカイブが液体的な自身としてあり、体はガラスコップのような表層的なモノなのだ。
箱庭
箱庭とは心理療法の手段としてユング心理学を応用した心理療法です。
日本での心理療法で家族の絵を描くことの方がポヒュラーで、幼稚園の頃よくお題として皆さん経験されたことがあると思いますが、箱庭はその立体バージョンのようなものです。
具体的に箱庭は、砂の入った箱の中に色々な人形や動物、建物などのミニチュアを置いて、想像する世界や気持ちを創造するものです。
元々は子どものための心理療法のためにヨーロッパで考案されたものです。
しかしながら、箱庭を都市と言う舞台、制作者は居住者として捉えることで、都市の個性を心理学の立場からの考察も可能です。
しかしながら、この限られた空間で一つの世界を表すことは、ことさら日本に根付いている文化なのです。
小さくは盆栽から庭園、寺院、地域へと個々の世界が1つを構成しなはら、全体を成すマトリューシュカのような構造が日本自体と考えれます。
近代の日本の景観の乱れは箱庭から見地でみると、ひどいものである。しかし、また新たな極地へと形成する過渡期かのようにも思えます。
またその認識は単なる私見であり内包する箱庭なのでしょう。
やはり箱庭は私見なのです。それは現実と内面は入れ子であるとも言えます。
現実を変えることは困難であるが、内面を変えるで現実を換えることは出来ます。
何も無く、全て有るのが箱庭なのです。
現実は箱庭であると思うと、気が楽でありがシリアスでもあります。
芥川の格言に「人生とはマッチ箱に似ている」というのがあります。「 重大に扱うのはばかばかしいが重大に扱わないと危険である」という意味です。此処にもまた箱庭は存在しているだと気づくのです。
日本文化はとても箱庭的構造を持ちあわせるのは、事象と自己と他者が繋がっている文化であるとも言い代れるのです。箱庭の試みがとても日本的だなと思うのも、この所以で有るのでしょう。
そしてまた上記は全て私見であり、現実であると気づくのです。