Feeling might be true
Now, when I feel something, I'm sure it be like I felt.
It's very important for us to believe in feeling.
If you have problem and cannot decide to how do it, you don't have to believe your thinking but feeling.
It be gone saying, first imagination is true and last thinking is better.
Sometimes, true is not enough or too much, we have to think something over and over.
But don't forget true, it's most precious thing for you, and you must be sure it's is true or not for you.
Border
We are living to feel border.
Territory, district, talent, score, personal, and so on,
But it's so micro viewpoint, isn't it?
Border is useless.
I think everything was connected something or everything was mixed something.
To see art-picture, the one line make no sense but the whole make sense.
Being you, we realize you.
Name is life
When I search somebody's name on website, I realize names have a each personality.
As rule, somebody whose name is same have similar or common background.
thus, one name is compose of one personality who might be real someone, who are.
Why is that?
I think name is decide owner's life.
Name sound make owner, if its name was felt melodious, windy of solid, their character might be likely that, since name is called everyday.
More over, language is also based on religion, its would be spell.
I'm not sure but it's one of curious thing.
Assimilate me
As typing article, we assimilate PC.
It was gradually little different form my aim.
Finally, there were anything but me.
It might be me, therefor I had to assent it was me.
I sometime realized what was I.
However I am nothing without being reflected something.
When I awaked someday, If I were not me, what would do I ?
It will be not in movie, because of It is real.
We are alive to be in between virtual and real since we are born.
I like that, it might be truth.
It will be up to me in the world.
About Shinto
Almost Japanese believe in a religion of Shinto but not notice obviously.
Because of recently Japanese life is based on Shinto, moreover Buddhism and Confucianism too.
Shinto is belief system of native Japan and the religion of peculiar polytheism to Japan.
A traditional Japanese customs belief and a natural belief to be born and grow up spontaneously between races who lived in the Japanese Islands were assumed to be a base.
Shinto is considered that the god stays in the all things in nature.
The feature principle is enshrined, enshrined and have strong connection between gods and people, compared with another religion,
So to speak, Shinto is based on nature, which not remain forever.
Shinto is one of reason Japanese is polite, good improve something and forgetful immediately.
Natural
I have been in Vancouver 2 weeks ago.
Resent Vancouver last rain days.
Living there people often say, it's natural but you should wait the May that is a nice season.
I cant believe in what they said. I think it must be natural.
I'm just waiting spring.
I need some brilliant colors.
There are natural things.
Lack
Everybody lack of something by nature.
If you believe yourself to be natural, others feel you are insane exactly.
its common sense is different from culture or religion or era etc.
And human beings have the same amount virtue and vice.
Democracy provide most people comfortable is juste.
If it is true, why we so war?
Always we commit a crime, we have to allow us from the viewpoint of the nature and life, which so do for long time.
So we don't forget we are just one of the member of earth.
Everything include everything, that's all.
Emotion
Digital is sacrifices our emotion.
Perhaps, our Idea beyond image we can.
Atmosphere has infinity data.
If it was described, It would were just surface.
Before one is aware, we believed in visible thing.
It like capacity of data.
Limited where is few emotion.
empty
It's empty around world.
Moreover, it's chage full of the vice and virtue.
Aim your wicked heart.
Kick it out so that wish feel voice, whose I'd known.
All have to fight surroundings couldn't close eves.
You know well, it told you to live what you must have to game atmosphere.
The more you become, the more you tend to be nothings.
So to speak, it's vacant.
Notice
I dream the spray of black ink after drop on the letter, these days.
I don't know the dream means anything any more than you do.
The stain on letter is like as tears.
I dive into it, but I can't breathing for darkness water shuts lights and block up air.
But soon or later, I notice I 'm fish.
That' about it, I dig. It's the media.
中庸
物事は多すぎても、少なすぎても把握しづらい。
また近すぎても遠すぎても同様。
常に中庸を心がけたい、それが理想である。
勿論、中庸というのは、各個人の許容によって異なる。
その許容も常に変化するものであり、なかなか自分の位置さえ認知することは困難なことかも知れない。
ただ、許容は自分であり、常に自由であることは気づきにくい。
社会に属すことで、人は人であり得るのは多くの哲学者が説いている。
しかしながら、社会と自分の距離感を喪失した現代は、社会の意思に操作される自己があることで、自由という概念を形成され、思考する余地さえ奪っている。
また、最大の発信者は社会の代弁者であることも多々ある。
個人を尊重する風潮があることは、悦ばしいことではあるが、常に社会というコスモの一部の個人であることを忘れてはいけない。
他者は自分でありながら、ひとつを形成している。だからこそ、個人個人の存在が問われるのだ。一般的な社会と呼ばれるものとは異なる自己を内包した社会は存在する。
本来自己を内包した世界が社会であるはずが、距離感を喪失した現代は一般的な社会を桃源郷をしてメディアは社会を内包した自己へと反転した局面へと誘いう。
それは靴を履いて、地面から離脱することと、酷似している。
自由はあらゆる選択肢を有することで、自由と成り得るが自由の意味さえ喪失した自由を享受しているのが現状だ。
社会に属し人と成ることが古来の人という概念からは、逸脱したものであろう。
規範を創る者達が社会人である限るそれは、不変なのだ。
本来の中庸とは、もう現代の中庸でらしかねる場面にあり、社会性を失うことでしか得れないものである。
からだ
一般的に約6ヵ月で体の細胞は新しくなる。
だから、過去の自分は物理的に自分ではない。
さらに、食べ呼吸し体は形成しているのだから、自己との思惑とは別の不確定要素に巡り合い自分を成らしめている。
少なくとも空気や食物は共有物なのだから、繋がっているのだ。
それはまた物理的に今を取り入れること。
人の身体の約60%は水分。
殊に体液を放出する時、人は感動している。
血も涙も涎も汗も排泄も流す際、紛れも無く生の喜びに感動しているようだ。
放出は過去からの脱却でもある。
それがとても流動的な水分なのが、おもしろい。
新しさは悦びだ。
体は構造的に循環ではなくスパイラルしている。
スパイラルは弧より構造的に弱いが、可変であるが故に柔和で立体的である。
その立体的は4次元に対応できる強さでもある。
その点でも体は循環しているではなく、更新している方が正しい。
とすると、体液は体内で循環しているのではなく、更新していると捉えれる。
だから感動するかと思う。
体は「空(から)・だ」であり、何かを取り入れる容器のようなモノ。
あらゆる過去のアーカイブが液体的な自身としてあり、体はガラスコップのような表層的なモノなのだ。
雨海水
理にかなった造形を成す自然物はそれだけで、美しさを感じます。
自然物が黄金律を成す構造的に、生物学的にも合理な形態を本能的に美しく感じるのは、人間の性なのです。その点で人工物は常に自然物と対峙しながら、美しさを競いあう儚い泡沫のようです。
何事も人が一生懸命に頑張っている姿や、天命をまっとうしている姿・生き様は、とても美しく感じるのは、生物学に当然なことことなのでしょう。
美しさはつまり、生命として隙のないことかもしれません。
ただ、化粧や道化を纏うことが美しいとは言い切れません。
それは、多生物をみると明らかではないでしょうか。
時代や時空を超える美しさは、生命力を感じます。
また美しさは生物が生物であり続けられるように、完成度が非常に高いところに存在します。
様式や形式の美しさは、文化的経過に発見した美しさです。
それは小宇宙で完結する哲学や思想であり、閉じられた世界。
その世界の鍵をもち得て見える眺望を楽しむのも一興。
しかし、その出口を忘れてはいけないのです。
コンテキストを読めないことは白痴で、結局出口を忘れていることと同義ではないでようか。
最後に、美しさは理想で有り続けるが故に進化出来るのです。
多様であるこの美しさを演じるのが生の舞台であると思います。
意味と意図と意思
意味
(1)言葉・記号などで表現され、また理解される一定の内容。
(2)ある表現・作品・行為にこめられた内容・意図・理由・目的・気持ちなど。
(3)物事がある脈絡の中でもつ価値。重要性。意義。
(4)表現によって暗示的にほのめかされる深い味わい。含蓄。
(5)ある表現・行為・物事などのもつ内容を表すこと。
意図
(1)何かをしようと考えること。
(2)こうしようと考えていること。めざしていること。
意思
(1)心の中に思い浮かべる、何かをしようという考え。思い。
(2)〔法〕
(ア)民法上、欲求ないし承認。表示行為の直接の原因としての心理作用。
(イ)刑法上、自分の為(な)そうとする行為についての認識。
コミニュケーションに於いて、相手を理解する時 {意味 < 意図 < 意思} の順で深度は増します。
また同時に、不思議と言語の規範を超えて、未分化な事象へ向かって行きます。
言葉を超えた、言葉にできないもの程、心の奥にあり、濃度は高いのです。
ヒトは、言葉を超えたものを言葉に当てはめる瞬間、事象のカテゴライズや情報収集への思考を止める習性があります。
言葉はイメージを心理的に捉えたと錯覚させ、安堵感をもたらす。
大人も子供も、言葉を覚えるのと、社会に適応することは密接に関係している。
それは、言葉や言語は、正に文化そのものであるから。
しかしながら、言語はそれ以上でもも、それ以下でもないことも、事実である。
つまり正確に言うと、言葉は心象までは伝えられない。
言葉のコミニュケーションでは、言葉から意味を、さらに意図と意思を汲む作業を率先したい。
また、他の感覚でもそれらの感受性は同様であろう。
関係の関係性
デザインの目的は関係性を形作ることです。
一般的にデザインはモノを作ることのみと、認知されています。
森羅万象、自体は無から発生しないく流転しモノと成っている点から、無から作ることは厳密に言うと出来ない。
絵画も絵の具の鉱石とメディウム、キャンバスと言う、モノの組み合わせによって、絵画は絵画足らしめている。
ここで[デザインが関係性を作ること]とを敢えて言うのは、デザインの目的、それ自体が関係性を構築する方法だから。対比的にアートは関係性を観ることとも言える。
さらには、『体感的』に関係性の問題を解決できる方法をデザインは担ってる。
さて、関係性とは何と何の関係?
もちろん、点と点、線、面、色、素材、量、人、物、言語、概念…など。精神的や物理的、数値的に解決することも重要なことかもしれませんが、おおよその各個人が体感的に解決できる答が求めらる。
デザインは物と物が例え異なりすぎて際立つとしても、環境や文化社会に調和が出来ることが望ましい。その点でデザインはとても流動的で、価値観や時代背景に左右される。
ITやPCの恩恵も有りますが、あらゆるジャンルの垣根は超えやすく、またオーバージャンルに展望出来るスキルが求められている。時代が経るほどコルビュジェの「道具は身体の四肢である」という格言は忘れてはいけない。
物事が多様化しているかのように思えるのは錯覚で、緩やかに一つの波に呑まれている。これからのデザイナーに求められるのは、思想や言語を網羅した柔軟で確固たる個性とスキル。
それは心から始まる多様性のある生活の起点の糧になると思う。
時代は成熟を迎え、現在の手法は環境問題もそることながら、再構築する過渡期であると思う。スポイルされた私見、利権を一回捨てることは出来ないだろうか?
価値観の再構築とは、そういうことである。事物は現段階での認識より、より多面的で身近なのモノであると思う。
少なからず、私は自分の体感を自分の価値基準にしたいし、信じたい。それをあなたと私の関係で共有出来るのならば、これほど嬉しいことはない。
読む
よ・む 【読む】
1)書かれた文字を一字ずつ声に出して言う。文字に従ってとなえる。
2)文字・文章などの表す意味を理解する。
3)図形・グラフや、一見無意味な文字連続などの意味することを判断し理解する。
4)他人の心や将来のことを推測する。
5)囲碁・将棋で、相手の手筋を察知したりする。
6)講談やなにわ節を演ずる。
7)漢字に訓をあてる。
8)数える。特に、数を口で唱えながら数える。
*三省堂「大辞林 第二版」より
つまり動詞で纏めると
理解する・予測する・発音する・表現する
意味です。
この動詞は受動的であり能動的なとても柔軟な動詞なのです。それはまたクリエイティブさも感じます。
読んでいる時は、個人と他者との情報の循環が行われています。いわいるトラックバック的のような行為が各個人内でまたは他者へ行われている。
ITの根底は読めることが前提であるこの相似点は実に納得のいくものでもある。あらゆるコミュニケーション能力は読むチカラで往々にして計れるのも興味深い。
言語から原語から減語
声は声帯の振動で、その音を言葉として捉える。
言い換えると、声は体の振動。
文字は記号です。活字は演じる道具です。PCのデフォルトフォントは粉しているとも囚われているとも思えます。
しかしながら、この記号は身体から遠ざかるほど、記号らしくなるのです。さらにそれは今や瞬間的に分散もできるのです。そう思うと、この眼前のビットマップから意図を汲み取ることは、とても難儀で抽象的な作業ではありますし、リアルな会話の素晴らしさも感じます。しかしながら、文字もまた可視光線の波長を視覚で受信し文字として認識します。
振動を感じる身体はとても柔軟なレセプターなのです。
それが正しいと思えるものは、例え誤解だとしても、信じ通すことが、大切です。揺るぎない信念というより、揺らぎ呼応出来る信念の柔軟性のことです。まるで、身体と一体に存在するのが信念ではないでしょうか。
すばらしい歌手の歌声は、声帯と身体と心の歌声です。これは歌詞をいくら読んでも、どれだけ歌詞に追記しても、その歌声には勝てない。
偏った器官の使用のみでは非常に限られた情報しか得れません。また、物質的に享受することも危険な嫌いです。触れていないものは常にどこかで触れているものと繋がっています。
私もあなたも常にうつろい揺らぐものなのです。
明治神宮
喧騒な原宿からすぐそばに荘厳な空間が広がっていることに驚きます。
真冬にもかかわらず、植物は青々と茂っている。
代々木公園は80年代で時が止まっている。
原宿駅付近は90年代で時が止まっている。
土地の記憶や匂いに釣られ現れる輩。
その理由の必然性は悲しくも儚い人の性。
常に勝つことが求められる街は死へ目ざす婆娑羅がのさばり、この世の終焉をあざ笑っている。
ただただ、死すことで生きているのです。
明治神宮は死の羨望を助長する装置のように思えるのです。
iMacG5デュアルディスプレイ化
出来るんですね。え、知らなかったのって感じですか。でも嬉しいんで書き込みます。
iBookのデュアルディスプレイは可能というのは聞いたことがあったのでiMacでも出来そうな気がしてたら報告例も多々ありました。Screen Spanning Doctorでいとも簡単に(DLして言語環境をEnglishで再起動、スクリプト実行、再起動、言語環境日本語に戻す)mini-VGA出力からミラーリングの要領でさくっと出来ます。素晴らしい。こんなAppleScript1つで出来るなら標準で付けて欲しいものです。もちろん現状は個人責任でのこと。
San Francisco
に一週間ちょい行ってきました。
土地が広いからか、人が大きいからかすべてが大きい。利便的には東京とは遜色ないですが、街自体が大きい分、車がないと不便でした(坂も多いし)。
観光都市なので過ごしやすく、実に快適でしたが、それらを得る為ににはお金が必要とされます。良い意味でも悪い意味でもすべてが濃縮された国ですね。
東京ヨガフェスタ2005
実際に初級のクラスに参加してきましたが、わかり易い言葉や動きが多く楽しみながらできました。どこを伸ばすのか、体の向きや背骨、骨盤の向きなどポーズを行いながら明解に説明してもらったり、講師の方が実際に手取り足取りでサポートして頂ける環境。
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食べ物
当たり前ではあるけれど、食べ物って血となり肉となるから大切だなって思わされました。口に入れて消化されて細胞になるまでは4週間。でその細胞が劣化して入れ替わるまでが6ヶ月。化学的には常に自分は新しくなり、やがて6ヶ月後には6ヶ月前の自分とは全く違う自分になっていることって知ってました?
野菜や果物を食べなければ成らないってことは知っていますが、成分の差をそれ程かん考えてなかったのですが、最近のスーパーに並んでいる野菜は出荷時には青いままで収穫して、輸送の時に熟れさせているんです。
当然、栄養価も熟れる前の数分の一。しかもハウスで年から年中作られる環境では土地の養分も少ない訳で。。
もちろん今では品種改良問題や農薬問題も否めない。
おいしく安心した食事をするのはもう難しい社会なんですね?
そんなことを考えると、おいしく安心した社会も難しいのですか?
その為に知恵や科学が補ってくれる社会なのですが、なんともスッキリした気分にはなれないのは何故でしょう。
教育問題
知人がやっているNPOの活動で、小学校でワークショプに参加して来ました。日常で子供と対峙する機会もなかなかないので、とても新鮮でした。
もう、さすが小学生ってな感じで、てんやわんや。
自分もついこの間まで、小学生だったような感覚になってしまいつつも、年の差を感じつつ。
教育問題が糾弾されている昨今ですが、結局は子供の本質は変わっていなく、それをとりまく、大人のあり方が昔と著しく変わってしまっているのかなって点も多々思わせられました。
珠玉混合の情報は溢れていている現代で、どれを取捨して与えるかが問題とされているが、その大人自体も情報に左右されているから解決策はなかなか見いだせないのではないでしょうか。
学校教育で出来る範囲っていうのうはごく一部でしかなく、また国や教育委員会が指定した教育範囲はカバーしたことをしなければ成らない訳だし。しかしその教育範囲は国民とし最低限の教養の範囲をどう与えるか、どう受け取らせるかがとても大切だと思っています。なぜなら、同じ情報でも吸収や定着を良くし、それを経た発信の内容は異なるから。教育内容ではなく教育方法が今どうあるべきかの方が比重があると思う。
どう与えるかの選択肢として子供が何に対して夢や期待を描けるか。それに向かうだけの選択肢と道のりを教育の現場では示さなければならない。不特定多数の学校教育ではある事柄に興味のある子も無い子もいて教師が1人1人の可能性を引き出すのは困難なのは否めない。
個人的には教育の場に置いては、教育のプロである教師はプロのオーガナイザーであると思うし、その教育の場にその分野のプロフェッショナルが参加することで、より生活に密着した教育もありかな。
皆に平等で均等な教育をすること自体に無理や欲求を感じていることは確か。
学校教育は今転機であると思うけれど、現状の日本社会を考えると難しい。
昔に比べ日本は豊になり、生き方は多様化している。
戦時中のような国家レベルの思想や他国のような宗教がなく、昔より生きやすくなったと言われるが、逆に死にやすくなったとでも言える。結局日本が夢のある国になれば、教育問題は解決するのかなーなんて思ったけれど、その前に日本政府は解決しなければならない問題が累積している。
少なくとも教育の場でそういった現状をアナウンスすることは、今必要なことだと思いました。
F1フランスGP
F1フランスGP アロンソ、ルノーに22年ぶりの母国勝利。アロンソは圧倒的な強さだった。2ストップで燃料を多く積んでいながら驚異的なラップタイムを繰り出し圧勝した。時代を捉え不動ものにした感さえある。
F1も後半戦に入りやっとフェラーリ勢の本来の強さにもマシーンやタイヤが追いついて来てここからが正念場の戦いになるだろう。
無尽蔵な走りをした琢磨は贔屓目なしに面白い存在だった。まさしく侍魂を持ってF1に参戦している。常にトップになる為に攻め続けるのは無謀であるがF1の本質の闘争本能を剥き出しにして戦っている。微妙なテクニックやマシーンが理想にあと少し近づくだけで優勝も夢ではないレベルである。彼のようなドライバーが増えることで、F1は何倍も面白くなるはずだ。
僕の好きなスポーツはF1 Soccer Dance K-1 Bike Prideなど。
一見共通点はないように見えるかもしれないけれど、命を掛けた戦いをやっている点で繋がる。
モータスポーツは勿論いつ死んでもおかしくないスポーツだ。理解ない人はなぜ死ぬ為に走るのか?と思うかもしれないが、モータスポーツには理由はない。本能的に速く走りたいだけなのだ。それが素晴らしく感じるからだ。
格闘技も同じだ。素人がk-1のリングに上がれば間違いなく殺されるだろう。強くあるということは、美学である。
サッカーは常にフィールドという戦場で有機的に考え動かなければならない。サッカーほど先の読めないスポーツはない。個人技が素晴らしい選手を抱えたチームが勝てるとは限らない。それはジョングルで狩りを行うことと同じだと思う。他の団体競技もそういった点はある部分はあるが、サッカーほど熱は帯びていない。
ダンスは言うまでもなく、その瞬間を生きることとが美学に昇華される。生きることがダンスであるのだ。
スポーツ以外でも共通するが心を動かすことは、命を掛けて戦っている姿だと思う。